戦争はいつも子どもたちを犠牲にします。第二次世界大戦…戦争という狂気の嵐が吹きあれていた時代、世界のあちこちからの国々で、なんの罪もない、戦争が起こったかすら理解できない幼い子どもたちが、無残に殺されていったのです。当時、私たちのまわりにもたくさんの死がありました。どの子どもたちも、」もっともっと生きたいと思っていたはずです。大きな夢をもっていたはずです。そんな子どもたちの夢や希望をうち砕き、焼きつくしてしまうのが戦争なのです。
 この本は、その時代、高い塀と有刺鉄線にかこまれた、“収容所”とよばれる地獄にとじこめられていた子どもたちの心の叫びを伝えるものです。
 アウシュヴィッツをはじめとする“収容所”で殺された子どもたちの数は150万人といわれています。子どもたちの怒り、悲しみ、夢、祈り、そして生きたいという叫び生命のメッセージをうけとめてあげてください。
ホロコースト”とは何か
幼い生命、無限の可能性を奪いとったもの
“ホロコースト”という言葉のもともとの意味は、焼いて神殿に供えられる犠牲“のことでした。第二次世界大戦後、ナチス・ドイツによるユダヤ人虐殺を意味する言葉としてひろくつかわれるようになりました。
 ホロコーストのはじまりは、最初はドイツ国内で、さらにナチス・ドイツ侵攻し、支配下においた国々での、ユダヤ人排斥、虐待、さまざまな剥奪というかたちではじまりました。ユダヤ人たちは、公職から追われ、店や病院を閉じさせられ、電車やバスに乗ることも買い物も禁じられ…自由に外をあるくことさえできなくなっていったのです。
子どもたちは、学校へ行くことを禁じられ、遊園地やプールからもしめだされました。

 戦争へ足音 ナチスとヒットラーの台頭
 アドルフヒットラーがひきいるナチス政権をにぎった1933年1月のことでした。第一次世界大戦は敗戦による屈辱感、経済危機、インフレにくわえて物資不足で、国民の生活は困窮し、不満や怒り、将来への不安がいっぱいでした。そんな時に、ヒトラーは、ドイツ の領土を 拡張して、世界で最大最強の国にしよう、ドイツ民族は世界でもっとも優秀で価値ある民族なのだと、得意の弁舌で繰り返し叫んだのです。その言葉のもつ魅力に、ドイツ国民は酔いしれナチスは強力な組織になっていきました。
 そんな夢の実現のために行動しようとするとき、いちばん邪魔になるのはユダヤ人の存在だと、ヒトラーには思えました。当時ヨーロッパには10000万人以上のユダヤ人が住んでいましたが、それぞれの国に根を下ろして暮らす人々のなかには、政治、文化、経済など各方面 で力を持つ人も多くいたのです。「ユダヤ人いたから戦争に負けたのだ。優秀で純粋なドイツ人の血統でドイツを強国にしよう!」…ユダヤ人を排除しながら、ナチス、ドイツは、領土拡張をめざして、オーストリア、ポーランド、チェコスロヴァキアへと踏み込み、1939年9月、第二次世界大戦の火ぶたがきられたのです。
胸に黄色い “ダビデの星”
 戦争がはじまって2ヶ月後の1939年11月23日、ナチスは、占領したポーランドに住むすべてのユダヤ人に、ユダヤ人であることがすぐ分かるように“しるし”をつけることを命令しました。すぐに、ドイツ占領下のすべての国で、「ユダヤ人は常に黄色い“ダビデ星”をつけねばならない。つけずに外出したら厳罰に処す」という命令が出されました。すでに1935年、ドイツでは「ニュールンベルク法」が公布されていました。“ドイツ人血と名誉を保護するため”ドイツ人とユダヤ人の結婚を禁止し、ユダヤ人はドイツ公民になれないと名言したものですが、この法のなかで、“両親の片方でも、あるいは祖父母のうち一人でもユダヤ人であれば、その子、あるいは孫はユダヤ人である”と、ユダヤ人の定義がされていました。
 どうして“しるし”をつけねばならなかったのか。それは、すでに実行されていたユダヤ人の排除をもっと強化して、町から追い出し、ゲットー(ユダヤ人だけを集めて生活させる区域)収容所へ送る作業を能率的に進めるための準備だったのです。
家を追われるユダヤ人
 ドイツ軍の侵攻後まもなく、ポーランド国内にゲットーがつくられました。当初は、“ユダヤ人だけを集めて生活させる区域“と、いわれましたが、その後、占領下の国々に次々とつくられたゲットーもふくめ、そのほとんどは、最低の生活環境、極端な食料不足、労働の強制、自由の拘束という意味で、収容所なんら変わらないものでした。そしてゲットーは、1942年「ユダヤ人絶滅計画」が実行にうつされ、アウシュヴィッツをはじめとする絶滅収容所が建設されるまで存在したのです。
  ゲットーも収容所も、ユダヤ人たちが家を追われ、送り込まれる手順は同じでした。ある日、突然”呼び出し状“が届けられるのです…「×月×日×時、×××に集まれ。出頭しない者は厳罰に処す…」。
  ユダヤ人たいは、持つことを許された一家族50キロの荷物を持って、子どもの手を引き、赤ん坊を胸に抱えて、ドイツ兵に怒鳴られ、蹴とばされながら、住みなれた家を追われ、町を追われていったのです。

移送
どれだけたくさんの 移送があったのだろう
どれだけの…
一回 二回 三回…?
 私には わからない
とうとう 私たちの番が来てしまった
ママが 荷物を集めている…

何を 持っていけるの?
一番……布団が一枚
二番……毛布が一枚
三番……つぎのあたった上着が一枚
四番……ボウルが一つ
五番……スプーンが一本
あぁ これが 私の世界のすべて……

作者不明/野村路子訳

ヨーロッパ中に存在した収容所
 当時ドイツが支配していたヨーロッパ中の国々に収容所つくられました。その数は、小規模なものも入れれば8000から9000といわれています。強制収容所といっても、捕虜収容所、軍需工場に付属する企業付属収容所、新しい収容所建設や道路敷設のための労働収容所、アウシュヴィッツのようにガス室と大きな人体焼却場を持つ殺人工場、絶滅収容所、そこへおくる人々入れておく中継地、移送収容所、さらには、人体実験のための収容所、女性だけの収容所、子ども収容所など、さまざまな目的にあわせたものがありました。
アウシュヴィッツへの中継地 テレジン
 チェコスロヴァキア(当時)の首都・プラハから60キロほどのところにあるテレジンに収容所がつくられたのは1941年のことでした。その日から、解放される1945年5月まで、ドイツ名のテレージエンシュタットとよばれ、国内および主として西ヨーロッパ諸国のユダヤ人たちをアウシュヴィッツへ送りこむ中継地として使われました。
…ぼくらは もう慣れてしまった
何千人もの不幸な人々が つぎつぎと やって来て
さらに もっと不幸になるために ここから去っていくのにも…
ピーター・フィッシェル(1929.9.9生まれ 1944アウシュヴィッツへ)
 テレジンは、当時ドイツが占領、支配していた地域のほぼ真ん中に位 置しています。各国からここへ送られてきたユダヤ人は、およそ14万4000人。4分の1近い3万3000人が病気、飢え、過労、暴行、そして拷問や刑罰で、テレジンで亡くなり、8万8000人がアウシュヴィッツをはじめとする絶滅収容所に送られました。
テレジンの町すべてが収容所だった

 テレジンは、昔の要塞がそのまま残っている町でした。その高く厚い塀が収容所として使うのに最適ということで、チェコスロヴァキアで最初の収容所がここにつくられたのです。要塞の中はすぐに人でいっぱいになり、ドイツは、要塞の外に住んでいた人々を立ち退かせて、町全体をゲットーとすることにしました。公園をかこんで 、学校があり、教会があり、人々が静かに生活していた町です。レストランや花屋さんやお菓子屋さんだった建物すべてに、ユダヤ人を詰め込みました。
 6000の人々が住んでいた町に9万人もが詰め込まれ、美しい町だったテレジンは、”ゲトー“という名の収容所になってしまったのです。公園にも道路にも、粗末なバラックが建てられました。それでも、入りきれない人々は、建物の前の階段や道端に寝ていました。当然、水道もトイレも足りません。建物内にも道端にもゴミや汚物があふれ、ハエがとびまわっていました。

“そこは天国”という嘘
 テレジンの子どもたちの中には、きれいな洋服を着て、笑顔で友だちと遊んでいる写 真の残っている子がいます。花いっぱいの道、花模様のカーテンのある部屋、ら洗いたてシーツのあるベット、白いやわらかなパン、あたたかいミルク……テレジンを訪れた国際赤十字の視察調査団によって撮影された写 真された写真なのです。「こんなひどい嘘はありません。小さい子どもたちは、明日もこんな天国つづくだろうって、夢をみたのですよ」…テレンジのわずかな生き残りの一人、ヘルガホシュコヴァー(1929年生まれ、当時ヴァイッツソヴァー)は話しています。
 当時、ドイツは占領国でユダヤ人虐待をしているらしいという噂が流れ、その真相究明のために、視察調査団が送られることになったのです。その話を聞いたドイツは、テレジンを視察の場所にえらびました。収容者全員をカリタテテバラックを撤去し、音楽堂をつくり、道路に花の鉢を並べ、壁や床をみがき、三段ベットを二段になおして柔らかい毛布をおき。割れたままだった窓ガラスがはいり、カーテンがつけられ……美しく生まれ変わった町に適当な数の健康そうな人だけを残して、余分な人数はアウシュヴィッツへ送ったのです。“天国”を演出するのに必要とされた老人と子どもたちは、談笑したり、髪にリボンを飾って音楽会の舞台に立ったりしたのです。人々の幸せそうな姿は、宣伝用の映画にも撮られました。

……あの時に、真実をみてくれていたら、もっとたくさんの人の命がたすかったのです。あの映画で、たった一日だけ砂場やブランコで遊び、白いパンとミルクの食事をした…
そう、一生にたった一回きりですよ……
子どもたちは、調査団が帰り、撮影が終わったあとすぐに、アウシュヴィッツへ送られたのです。1944年の10月でした。 ……
子どもたちの“本当の”生活

 テレジンは、10歳から15歳の子どもたちが、男子・女子に分けられれて、それぞれ<男の子部屋><女の子の部屋>に入れられてしまいました。
部屋 四方の壁に沿って三段ベットが並んでいました。ベットとはいっても、三段の木の棚のようなもので、最初は、その一段に一人で、毛布が一枚と、藁の入ったふとんが一枚ありました。でも、子どもの数がふえるにつれ、一段に2人、3人になりいちばん多かったときは、6人が重なり合うようにして寝ていました。人数がふえても、毛布やふとんが補充されることはなく、すり切れ、破れて、最後のころは、ボロぞうきんが糸くずのようでした。
一日の時間割 1929年生まれ、ブーヘンヴアルトで救出されたトーマス・ゲーブという少年は、収容所での生活を次のように書いています。

朝  5時 起床 飲食  
   6時 整列 作業場へ行進 労働
昼  12時  食事 休憩 労働
    6時45分   労働終わり 帰棟
夜  7時  点呼 食事   
   9時30分 就寝

食べ物 朝は“コーヒーとよばれる”茶色い水が一杯だけ。昼は、ピンポン球くらいの大きさの小麦粉の団子の入った、うすい塩味のスープと、小さな腐りかけのジャガイモ一つか、かたいパンが1かけ……それが子どもたちの食事でした。

アウシュヴィッツへの“死の旅”
 1942年 1月、ヴァンゼー会議で”ユダヤ人問題の最終解決“が決定されました。ヨーロッパにいるユダヤ人を絶滅させるという計画です。それ以前から、山中に連れ込んでの射殺や、改造したトラックに排気ガスを引き込む”いどうしきガス室“などで、大量 殺人はおこなわでれていましたが、この決定によって、より短時間に、より多くの人々を、間違いなく殺す方法として、チクロンBという青酸ガスが使われることになりました。アウシュヴィッツ、マイダネック、ヘルムノ、ソビボール、トレブリンカなどの収容所に、ガス室と、そこから大量 に出る死体を処理するための焼却場がつくられました。
 密閉されたガス室にチクロンBを使えば、30分足らずで、詰め込んだ2000人を確実に 殺せるのです。
 絶滅収容所ハ、ポーランド国内の鉄道の通っている地域に設けられました。より多くの人を、一人の逃亡者もなく運ぶには鉄道を利用するのが最適だからです。出入り口が一つ、窓も小さなものが一つだけという、家畜運搬用の貨物列車が、“死の旅”の専用車になりました。牛や馬なら8頭を乗せる車両に、200人以上の人が詰めこまれました。列車は、ドイツ担当者の“綿密な計画”でヨーロッパ各地の収容所から、それぞれの絶滅収容所へとつぎつぎと人々を運びました。
 走っては止まり、また走っては後戻りし、夜になると真っ暗な原野の真ん中で長い時間止まったままでいたりして、なかなか目的地に到着しない列車もありました。ぎゅうぎゅう詰めの車内は息もできないくらい苦しく、パン一切れ、水一杯与えられない人々は飢え、衰弱、人と人の間にはさまれて立ったまま息絶える人もおおくでました……それは、ドイツの計画どおりの結果 だったのです。
 管理するドイツ人の何倍もの人々輸送です。目的地に着いた時点での逃亡や反抗を防ぐには、衰弱させておくのが良い、死者が出れば殺す手間がはぶける、それでも、元気の良いのがいれば、それはしばらく労働力として利用しよう……ドイツにとって、ユダヤ人たちは“労働力”として以外、なんの価値もない存在だったのです。
テレンジの子どもたちも
 毎日毎日、何十両もつながった貨物列車が、西から、南から、北から東にある“殺人工場”へ向かって走っていました。その中に、テレジンから、子供たちを乗せて行く列車もあったのです。
  収容所はどこでも、入り口に“ARBEITMACHTFREI”(働けば自由になれる)と書かれていました。テレジンにも、その言葉がありました。子どもたちは、一日10時間から11時間も、幼い力で重い材木やレンガを運び、なれない手で畑を耕し、命令どおりに働いていました。でも、子どもたちがテレジンを出たのは、自由になるためではありません。 アウシュヴィッツのガス室へ行くためだったのです。アウシュヴィッツの門にも、同じ言葉がかかれていました。ほとんどの子こどもたちは、この門をくぐることもなく、貨物列車をおりたあとすぐにガス室に連れていかれました。
 アウシュヴィッツ収容所あとの博物館にはガス室で殺された人々のさまざまな遺品が山のようにつまれています。幼い子どもの持っていた人形やオモチャ……眼鏡、靴、歯ぶらし、トランク……そして髪の毛も。それらの遺品は何も語りませんが、ホロコーストの事実を確実に伝えているのです。
 テレジン収容所の<子どもの家 >にいた10歳から15歳の子どもたち15000人のうち、戦争終結まで生き残っていたのは、わずか100人だけでした。生き残った人々は、「生き残るには1000の偶然と1000の幸運があったから……」と語っています。そして、殺された仲間たちのためにも、今、過去を忘れてはいけない、人々に語っていかねばならないと、つらい過去の事実を見つめているのです。
楽しかった日々
 飢え、寒さ、親と会えない淋しさ、なれない労働の疲れ、そして死の不安……子どもたちの生活は厳しくつらいものでした。夕暮れ疲れ果 てて戻ってきても、笑顔で迎えてくれるお母さんはいません。おいしそうな湯気をたてるシチューのお鍋もなければ、弟や妹の笑い声もありません。
 おしゃべりもなく食べる、毎日決まったうすいスープとかたいパンの“夕食”。終わっても、お腹はからっぽのままです。粗末な木の棚に横になれば、すり切れた毛布の奪い合い、目つぶれば、お母さんが貨物列車で運ばれて行く悪夢…。
  「今日はとってもつらいけど、でも、明日、戦争が終わるかも知れないのよ。希望を捨ててはいけないは。さあ、目つぶって、楽しかった日のことを 思い出してごらんなさい……お父さんやお母さんと一緒に遊園地に行ったはね……メリーゴーランドに乗ったでしょ……そう、あなたはサーカスを見に行ったの?……またきっと行けるわ、学校へも、公園へも、プールにも……。楽しかったことを思い出して描いてみましょうよ」
 ある日、<女の子の家>に、楽しい歌声がひびきました。「遊園地でみんなでうたったでしょ? 覚えているわね、この歌」先生は笑顔で語りかけてくれました。
 子どもたちは、楽しかった日々を思い出しました。配られた紙はしわくちゃだったけれど、久しぶりに絵を描けるのです。クレヨンは折れて短かったけれど、思い出に色をつけられるのです。みんな一生懸命でした。遊園地の絵を描いていると、幼かった妹の笑い声が聞こえてきます。お父さんのみんなを呼ぶ声が聞こえてきます。学校の絵を描いていると、仲良しだった友達の笑顔が浮かんできます。先生のお話も聞こえます。子どもたちは、絵をかいていれば幸せになれるのでした。明日、きっと良い日がくると信じられるのでした。
 子どもたちは、楽しかったことをつぎつぎと絵にかきました。悲しくつらい日々の中で思い出すことはなかったのに、楽しかった思い出はいくらでも出てくるのでした。子どもたちは、目をかがやかせ、笑顔でクレヨンをにぎっていました。
 子どもたちは、たのしかったことをつぎつぎと思い出しました。夜、ベットの中で、お母さんが読んでくれた童話、話してくれた昔話お話の中では、お姫様や少女は必ず幸せになれたのです。かならず幸せに子どもはそう信じていました。
 子どもたちは、家の絵をたくさん描きました。大好きだった家、家族みんなそろって楽しくくらしていた家どの家にも、一本の道がつづいています。あの道を通 って行けば家に帰れる扉を開けば、みんなが待っている家は幸せの象徴でした。

収容所の生活
 当時、貨物列車の行き先が、“殺人工場”といわれる絶滅収容所だということは知らされていませんでした。
「でも、私たちは知っていました。いつ、どこから伝わってきたのか分かりまさんが<子どもの家>にも、噂が流れていたのです。貨物列車行った先には、大きな煙突があって、その煙突は、毎日朝から晩まで休みなく黒い臭い煙を吐き出しつづけているのだって……そして、そこへ送られた人は、もう決して戻ってはこないって……。明日は私の番だ、明日は いつも不安におびえていましたよ」と12歳6か月のときにテレジンへ送られ、開放の日まで生きのびた”幸運な子どもたち“の一人、ラーヤ・ザトニコヴァー(1929年生まれ 当時エングランデロヴァー)は語っています。
 空腹、過労にもまして、父や母と会えない淋しさや死の不安は、子どもたちの心を暗くしました。せっかく同じ年ごろの子どもたちが一緒の部屋で暮らしているのに、笑い声も会話もありません。口をきくのは、毛布の奪い合いや、スープをもらう順番のとりっこ……子どもたちの心は荒れ、乾ききっていました。   そんなときに、「楽しかった日のことを思い出して絵を描きましょう」と、先生が訪れてくるようになったのです。先生の笑顔に、優しい言葉に、子どもたちの冷えきった心がとけました。遊園地の絵を描きながら笑い声が出るようになりました。……でも、それができない子どもたちも多くいたのです。楽しかった家を思い出そうとしても、ドイツ兵に銃を突きつけられて家から追い出されたことしか思いうかばない子、父も母も失い笑顔を忘れてしまった子、家の絵のなかに収容所の三段ベットを描いてしまう子。
……首を吊られる男の胸のダビデの星は、そこだけが濃く、何度も何度も鉛筆で描いたたことがわかる。  「この星が……この星が……」
 どうしてなのか、幼い彼にはその理由は理解できなかったが、胸にこの黄色い星のマークをつけさせられた日から辛いこと、悲しいことが多くなったことだけは分かっていた。
                     ……略……
 「この星があるから  この星が悪いんだ」 彼は、そう繰り返しながら、この星を描いたのだろうと思った。
ヨセフ・ノヴァークの絵は3枚あります。どの絵もエンピツだけで描かれたもので、色彩 がまったくありません。「楽しかったときの絵を描きましょう」といわれても、楽しかったことが思い出せない12歳の少年の心から離れない光景、それは少年の大好きな父親の処刑される場面 だったのかも知れません。その瞬間から、少年の心は凍りついてしまったのでしょう、そして、笑顔をとり戻すこともなくアウシュヴィッツのガス室で短い生涯をおえたのです。
 きれいな壁、カーテンのかかった窓、花のかざられた食卓お父さんやお母さんと一緒に暮らしていた。大好きななつかしい部屋を描いたはずなのに、そこに、三段ベットが描かれています。番号のついた三段ベット、寝返りもうてないほど窮屈で、汚れた毛布は臭く、シラミやナンキン虫いるベット大嫌いなハズノベットなのに。
「こどもたちのそばには三段ベットしかないのですよ。大好きだった清潔なシーツのかかったベット、ふわふわの布団や枕を思い出したいのに、そばにある、離れることのできない三段ベットの存在が重く心にのしかかっているのです」と、これらの絵を保管しているプラハのチェコ国立ユダヤ博物館学芸員のアンジェラ・バルトショヴァーは語っていました。
 RAJ(Jがまちがって反対向きになっています)“天国”と、クリスマスの絵。この子たちが夢見た天国もクリスマスも、どちらも、食べ物でいっぱいです。天国になら、どんな木の枝にもたくさんの果 物がなっているだろう、そんな光景を夢見た子も、平和に暮らしていたころ、楽しく過ごしたクリスマスの思い出を描こうとした子も、一生懸命に描いてしまったのは、大好きだった食べ物いっぱいの絵でした。食べ物がたくさんあって、好きなように食べられる……それが、子どもたちにとっては、幸せな生活のひとつの象徴に思えたのかもしれません。
「私の番号は73305…。母の機転で助かったのです」

 エデイタがアウシュヴィッツに送られるのは1943年12月の最初の大移送のときでした。しばらくアウシュヴィッツノバラックで過ごし、翌年になってはじめて、“選別 ”が行はれることになりました。肉体労働に耐えられる若く元気な人を選び出してドイツへ送り、残りは処分するというのです。
  「大半の人がガス室送りなると聞いていました。16歳から40歳までの人だけが労働力として認められるのだって……。私は15歳、母は42歳でした。一列にならんで、メングレ医師の前に進んでいくのです。彼は、人さし指を一本立てて、それを右、左、右と動かすのです。“左”の方が多かったですよ、子どもはみんな“左”でした。
 もうすぐ私の番がくる……もうだめだとおもいました。そのとき、すこし前に並んでいた母が後ろを向いて“エデイタ、16歳”ってどなったたんです“と大きな声で言うのがきこえました。何のことか分からないでいるうちに母の番がきて、母が”37歳です“と大きな声で言うのがきこえました。母の考えがとっさに分かった、私は背をのばして、大声で”16歳です“と答えましたよ。母も私も”右“でした」ト、エデイタは話していました。
 ドイツでは、連合軍の爆撃で崩れた建物をかたづけたり、防空壕を掘ったりの過酷な労働が続きましたが、44年冬、ふたたび列車に乗せられてベルゲン・ベルゼンに運ばれました。収容所の建物の中は死体がいっぱいで、その間に、動けない人が汚物にまみれて寝ているというひどい状態だったということです。  
  あの「アンネの日記」を残したアンネ・フランクは、おそらくこのころベルゲン・ベルゼンのどこかの建物のなかで、チフスのために死んでいったものといわれています。
 「食べ物もなく、何日間かそのまま寝ていました。……もう、本当に最後だと思った朝、連合軍が到着して、私は助け出されたのです」エデイタもチフスにかかっていました。それでも、ほんとうに幸運なことに、母親とともに助け出されたのです。
 連合軍の兵士たちは、わずかに生き残つていた人々のあまりの衰弱ぶりにびっくりしました。人間はこんなに痩せることができるのかと話し合っていたということです。自分の足で立てないほど弱っている人々に、兵士たちは、持っていた肉の缶 詰やチーヅをさしだしました。みんな飛びついて、むさぼるように食べました。長い間、見ることもなかった肉の缶 詰です。エディタも、その一つをとろうとしました。
  「食べたかったです、とっても。でも、母が“いけません。最初はミルクを一口だけ……”っていったのです。ミルクを少しと、母のいうとおりにしました。あのとき、肉をいきなり食べた人たちは、つぎつぎと腹痛をおこして亡くなってしまいました。私は、二度も母に助けられたのです。だけど、私がだんだん体に力がついてきたころ、母は、とつぜん具合が悪くなって、結局、亡くなってしまったのです。……」
 エディタは、現在、イスラエルのナターニヤに住み、「暇を見つけては絵筆をもつ生活をしています。「今は花の絵しか描きません。きたないもの、悲しいものをたくさん見てしまったから、今は美しい花を見ていたのです。」

「母と別れた日、私の子ども時代は終わったのです」
 生き残った子どもたちの一人  ラーヤ・エングランデロヴァー(現ザトニコヴァー)
 ラーヤは1944年の視察調査団のときのことをよく覚えているといいます。「部屋をきれいに修理し、飾り、それまでは押しこめられるだけ押しこんでいた子どもたちを、半数に減らすというのです。元気そうに見える子どもたちだけが残されるらしいと分かって、みんな必死でした。そのころは食事も良くなって、パンに小さなマーガリンが一片についてくることがありました。だから、元気になったような気がしていたのに、ある朝、友だちから顔色が悪いっていわれて……、私は、マーガリンお顔に塗ったのですよ。一生懸命こすって、頬が赤くつやつや見えるようにね」。
 当日まで残ることができたラーヤは、“天国”の収容所にある学校で、楽しく勉強する子どもを“演じた”のだそうです。学校の食事時間には、白いパンとイワシの缶 詰がくばられました。 テレジンに来てから一度も食べたことのないイワシ……それを、毎日食べてあきあきしているように、“なーんだ、またイワシなの?”というのが、彼女たちに命令された役割でした。
 みんな、上手に役割を演じたのに、視察団が帰り、映画の撮影が終わると、もう要らなくなった老人や子どもたちは、つぎつぎとアウシュヴィッツ送られることになりました。毎日毎日、たくさん友だちが貨物列車で運ばれて行くのを見送りました。そんなある日、ずっと会っていなかった母親が訪ねてきました。<子どもの家>に親が会いにくるなんてことは、それまでなかったことです。喜んで飛びついたラーヤに母親は、明日、貨物列車に乗せられることになったと告げて、逃げるように帰って行きました。お母さんと別 れたくない一緒に行きたい 彼女は、勇気を出してドイツ軍の事務所に出かけました。「お母さんと一緒に行かせてください」……「お前は畑仕事のリーダーだからダメだ」という兵士に、彼女は何度も何度も頼みました。「そんなに行きたきゃ勝手にしろ」といわれ、翌朝、ラーヤは、貨物列車の発車場へ走って行きました。「お母さん、お母さん」長くつながった列車に沿って走り、必死で呼びかける彼女に、ようやく母親の返事がありました。いっぱいに詰めこまれた人々のなかから、母親が手をのばしてくれたのです。その手をつかんで列車に乗りこもうとしたとき監視のドイツ兵がやってきました。「何をしているんだ、下りろ!お前はまだ順番がきていないはずだ」引きずり下ろそうと腕を引っぱるドイツ兵……ラーヤは線路際に転がり落ちてしまいました。その間に厚い木の扉が閉められ、錠をかけられ、貨物列車は動き出してしまったのです。それが、テレジンから、アウッシュヴイッツへ行く最後の移送でした。
  そして、それっきりラーヤは母親と会うことがなかったのです。
「私は、自分の目でみた事実だけを描きました」
 生き残った子どもたちの一人ヘルガ・ヴァイッソヴァー(現ホシュコヴァー)
“……もう9時が過ぎた。3人とも無言で座っている。……夜のしじまにベルの音が鳴る。「誰だろう」。……父は、震える手にペンを持って召喚状に署名する。役所の男が帰ったあと、しばらくは3人身動きもせず座ったままだ。私は自分に目から大粒の二本流れているのに気づいて拭いた。私は泣かない!……“
 ヘルガは、1941年12月22日、テレジン収容所へ送られる前の晩ことを日記に書いています。召喚状を受けとったあと、しばらくは悲嘆にくれていた彼女の家族は、おたがいに 励ましあって持っていく荷物をつくりました。寒い夜でした。母親はなによりも布団が大事といい、父親は銀の燭台を持って行きたいというなかで、ヘルガは大切に持っていた画用紙と絵の具、それに2冊のノートをいれました。そのノートの1ページ目に書いたのが、その晩の出来事だったのです。
 それから3年、テレジンで暮らす間、ヘルガは日記を書き続けました。「もっと書きたかったけれど、書けなかったのです。ノートもエンピツもなくなってしまったから……」彼女はまた、絵を100枚以上描いています。収容所の庭に点呼のために並ぶ子どもたち、働く子どもたち、スープの配給をもらうために並ぶ人々、棍棒をふり上げるドイツ兵、収容棟の脇に倒れている人、手押し車いっぱいに重なる死体の山……。
「私は、お父さんが大好きで、お父さんのいうことはいつも正しいと思っていました。だから、“自分の目で見た事実をかきなさい”といわれたことをきちんと守って、収容所の真実の姿を描き続けたのです」。彼女と父親は、テレジンに着いてすぐ別 れ別れになりましたが、<女の子の家>の修理のために出入りした知人の努力で、一度だけ、手紙を交換することができたのです。ヘルガは雪ダルマの絵を送りました。それに対する父親の返事が、「自分の目で見た事実を描きなさい」だったのです。描くことはたくさんありました。彼女は、持っていた画用紙を小さく切り、絵の具も節約して、100枚のを描いたのでした。
 その絵をいちばん見てほしかった父親とは、それっきり会うことができませんでした。でも、彼女の描いた絵は、一時は、“天国”を装ったテレジンの真実を伝える貴重な資料として、今も注目されているのです。
 左の少女の頭には、人間の髪の毛がつけられています。右の少女の髪には毛糸が使われていますが、きっと、それで毛糸がなくなってしまったのでしょう。右端の医者の頭は、エンピツで描かれています。先生の手元にもう毛糸がないと分かったとき、作者は自分の髪を切って貼りつけました。それが、自分の、この世に生きたたった一つの証しになってしまうとも知らずに…。
 この作品は未完成です。紙の上部の棚などもちゃんと仕上げるつもりだったののでしょう。“今度の教室で、きれいに仕上げて、それからちゃんと名前をかこう”…。でも、次の教室でが、この作者にはなかったのです。
「絵を描いていたから生きられたのです」
生き残った子どもたちの一人イェフダ・バコン
 イェフダがテレジンに送られたのは13歳の時でした。1年数ヵ月のテレジンの生活、飢えと重労働つらい毎日のなかで、彼は絵を描くたのしさ、すばらしさを知ったと言います。オットー・ウンガー、レオ・ハース、カレル・フレイシュマンなどの画家たちと出会い、彼らの教えを受ける機会があったのです。「短い時間でしたが、あの時間がなかったら、私は生き残れなかったとおもいますよ」オ、イェフダは語っています。
 43年アウシュヴィッツへ送られて、大柄の体格だったために”選別“でガス室行きをまぬ がれたもの、耐えがたくつらい特別任務を命じられました。「人間に絶望しかけました。そんな時に、あの画家たちのことが心に浮かんだのですよ。命がけで真実を描き残そうとしていた画家たち……私も、子どもの目にうつった真実を書き残そうと思いました」。15歳の少年に与えられた特別 任務とは、死体処理でした。ガス室から出されるおびただしい数の死体、その一つ一つの口をこじ開けて、中から金歯を取り出すという仕事なのです。「地獄の毎日でした」とイェフダ言います。毎日毎日、朝から晩まで、つぎつぎと運び出されてくる死体の山…そのなかで暮らしながら、彼は、拾った紙切れに、小さくなったエンピツで絵を描きつづけていたにです。
 「生きのびたいと思いましたよ。生きのびてよい絵を描きたいって……。こんな紙切れでないキャンパスで、好きな絵に具を使って、すばらしい絵を描くのだ。あの画家たちのように、すばらしい絵を描くのだって、あおの願いが、私の生きる力になったのですよ。もし絵がなかったら、もっと早い時期に私は滅んでしまっただろうと思います」。

 死体の口の中から金歯を抜く仕事をしていたある日、彼は、死体の山の中に父親を見つけました。強くたくましかった父親が、痩せて苦しげに口をゆがめて、裸の死体になっていたのです。「私はその口を開けて金歯を抜きました。ほかの死体と同じように。涙はでなかったです…そう、あのときの私は、泣くという人間的な感情すら無くしていました」と、彼は語っていました。  1945年5月、アウシュヴィッツが解放されたとき、彼は、飢えと寒さと過労で“死にかけて”いました。でも、食べ物よりも先に“紙とエンピツをください”と頼んだそうです。「すぐに絵を描きたかったのです。どうしようもなく、絵を描きたかった…」というイェフダは三枚の絵を描いたのち衰弱のあまり倒れ、その後、精神状態が不安定で数年療養生活を送らねばなりませんでした。十代の少年には、死体処理の仕事が、どれほど重く、苦しいものだったか……。「私は人の死に泣けない、つらかったですよ。普通 の人間ではなくなってしまったのだと……」  彼の治療にあたってくれた先生が亡くなったのは、開放から数年過ぎたときでした。その葬儀の席で、彼は、はじめて自分が涙を流していることに気づいたのだそうです。そして、泣きながら、人間としていきかえることができたのです。
 イェフダは、現在イスラエルの美術大学の教授であり、画家としても知られています。  
  彼は、テレジンでも、アウッシュヴィツでもたくさんの絵を描いていいますが、残念なことに、それらの絵は残っていませんでした。この絵は、解放直後に描いたものの一枚です。焼却場の大きな煙突から出る煙の中に父親の顔を描いています。どんな思いで父親の死体の処理をしたのか、少年の苦しみ悲しみが伝わってくるような絵です。
  テレンジの収容所での文化活動―音楽・絵画・演劇などぉは、あれから50年たった今、その、質の高さはもちろん、かかわった人の努力や、収容者が生きる力などで、高く評価されています。視察団訪問の際の音楽会、劇の上演会という特別 な機会だけでなく、テレジンでは秘密の文化活動さかんだったのです。収容者は労働力でしかない収容所、命令されたこと以外の行動はすべて規則違反とされる収容所……そのなかでは、子どもたちに絵を描かせるのも詩を教えるのも命がけのことでした 。
<男の子の家>で出されていた
雑誌『」EDEM』
 <男子の家>ではヴァルトール・アイジンガー、ブルーノ・ッヴィツカーら、文学者や教師たちの指導で、雑誌[VEDEM](”私は導く“という意味)がつくられました。もちろん手書きで、詩・作文・論文・収容所内ニュースをまとめ、それを綴じて、子どもたちの間を回覧するのです。
 やっと手に入れた紙に、なるべくたくさんの内容をもりこむために、細かい文字を書かねばなりません。薄暗い電灯が一つあるだけの部屋、監視のドイツ兵に見つからないように、子どもたちはみんで 力をあわせて編集作業にとりくみました。楽しい時間をすごすことができたのです。編集長は、1928年生まれのピーター・ギンツ。彼は詩を書いても、論文を書いても素晴らしい才能を示して教師たちを驚かせました。同誌の表紙の絵も彼が描いています。<女の子の家>にも、その評判が伝わり、[VEDEM]は、何人もの手わたって、こっそりと女の子たちにも回覧されました。彼は、アウシュヴィッツへの移送が決まったとき、それまでに描いた絵を父親にあずけました。一つ下の妹と、絵を大切に隠しつづけた父親と幸運にも生きのび、16歳で無残にも断ち切られた素晴らしい才能の一部が残ったのです。
 妹のエヴァ・キンツオヴァは、現在イスラエルに住み、画家として高い評価を得ていますが、兄の才能を惜しみ、84年に開かれた個展を「兄妹二人展」として、40年前の16歳の兄の作品を並べました。
子どもたちは 何にでも絵を描きました。
 絵の教室が開かれるようになったとき、子どもたちは、家から持ってき手大事にしまってあったノートや画用紙出してきました、紙もクレヨンももっていない子もいます。ここでは、紙も絵の具もクレヨンも貴重品です。なくなったら、新しいのを手に入れることはできないのです。先生のはなしかけで子どもらしい笑顔や友情をとりもどした子どもたちは、画用紙を半分に切り、クレヨンを代わりばんこに使って絵を描くようになったのです。それでも、すぐに足らなくなりました。
 もう紙がないの…それを知った大人たちは、命がけで紙集めをはじめました。ドイツ兵の捨てた書類の紙、ゴミ箱から拾った皴くちゃの袋、箱のふた…。ドイツ軍の事務室掃除当番をしていた人は、見つかったら殺されると覚悟のうえで、書類の紙を盗みだしました。
 子どもたちは「、絵も好きですが、工作も大好きでした。紙や布、いろいろの材料をつかって作品を作るこおは、とても楽しく、一生懸命に作っているときは、現実のつらさ、悲しさを忘れることができました。それを知っている先生は、何とかしていろいろな材料を集めようとしましたが、なかなか手に入りません。それを聞いた大人たちは、自分の着ているセーターの裾や袖口をほどいて、少しずつの毛糸をさし出してくれたのです。「子どもたちに、あげてください…」と

 それを聞いた子どもたちは、お母さんたちが、今も自分たちのことを考え、愛してくれているのだと知って、幸せな気分になれたのだそうです。
子どもたちに生きる喜びをおしえた
フリードル・デイツカー先生
 「テレジンの記憶には、楽しかったという言葉はあてはまらないですが、それでも、楽しかったと思える時間があるとしたら、それは、ディッカー先生の絵の教室のときでした」…生き残ったエディターも、ラーヤも、口をそろえてそう語っています。
 フリードル・ディッカー…テレジンの子どもたちを語る、けっして忘れることのできないのが彼女の存在です。彼女がテレジンに送り込まれたのは、1942年12月17日、42歳のときでした。
ウインーに生まれ、幼いころから美術・芸術に関心が強く、すぐれた才能をもっていたフリードルは、1921年から、ドイツに誕生したばかりの前衛芸術運動の拠点である<バウハウス>で学び、師のヨハン・イッテンをはじめ素晴らしい仲間たちと出会いました。絵画ばかりでなく、彫刻、舞台芸術、舞台衣装、テキスタイル、グラフィイク・デザイン、書籍の装丁…と、彼女の活躍はめざましく、24年にはベルリンの宝石フエアーで栄誉賞、その後も、さまざまな分野の創作活動で高い評価を得て、充実した数年間でした。でも、その間にドイツの情勢は大きく変化しつつあったのです。ナチスの台頭、そしてユダヤ人に対する差別 、虐待…迫ってくる身の危険を逃れて、フリードルはプラハに移り住みました。プラハにも、ナチスの軍靴のの音がひびいていました。ユダヤ人の子どもたちは、学校に行くことを禁じられ、友達と遊ぶ機会も奪われて、ひっそりと息をひそめて暮らしていました。
 42年、ドイツ時代の仲間たちが彼女のもとをたずねてきました。苦心して手にいれたパスポートを持ってきたのです。今なら間に合う、安全な国へ逃げで“というのです。だれもが、故国ドイツの行動を知っていました。そして、フリードルの才能が、理不尽な力で抹殺されことを案じていたのです。
  「私だけが助かるわけにはいかない。子どもたちには私が必要なの…」彼女は、学校から追われたユダヤ人の子どもたちを集めて、自室で秘密の会が教室をひらいていたのです。仲間の好意をことわった彼女は1942年12月17日、テレジンへ送られました。大きなトランクには、家にあった、ありったけの紙と絵の具とクレヨンを詰めました。
 収容所の労働にも、粗末な食事にもなれたころ、収容所仲間の教師や詩人や音楽家たちと会う機会をえたのです。罵られ、蔑まれ、殴られ、蹴られて、首をたれ笑顔もなく労働の現場へ歩く子どもたち…このままじゃいけない!たとえ短い限られた時間でも、子どもたちに、生きているって素晴らしいのだと教えよう、希望を捨ててはいけないと語りかけよう、子どもらしい笑顔をとり戻させよう…。そして、フリードルは子どもたちの絵の教室をひらくことになったのです。
 フリードルは、アート・セラピーの専門家として、絵を通じて子どもたちの抑圧された精神状態や不安な感情などからくる内面 の問題をよみとり、それに適切な語りかけを繰りました。そして、同時に、<ハウスハウス>教育をもとにした独特の指導法で、子どもたちの個性を引き出し、その感覚をも開発したのです。
 フリードルは、子どもたちに貼り絵や切り絵、コラージュなどを教え、自由な発想で作品を作らせました。収容所への呼び出し状を受け取った夜、彼女は、家にあった紙や布を集め、それを、絵の具でさまざまな色に染めました。どんなところへ連れていかれても、しこで、自分の力を生かせるせる機会があるはず…子どもたちがいれば、きっと私になにかができるはず…。と信じて、寒い冬のためのセーターをやめて、紙や布を収容所に持ち込んだのです。その紙が、どんなに子どもたちを喜ばせたでしょうか。
 フリードルは花がすきでした。平和の時代に彼女の描いた作品には花の絵がおおくありました。収容所のなかには花はありません。収容所の管理をするナチスの幹部たちは、自分の家のまわりには庭をつくり花を育てていましたが、子どもたちの生活する部分には雑草の花すらなかったのです。雑草が小さな芽えお出すと、それお見つけた人が摘みとって 食べてしまうのです。
 フリードルは、深夜こっそりと監視の目をのがれて、美しい花の絵を描きました。子どもたちに、花を見せたかったのです。世の中には、たくさんの美しいものがあるのだと教えたかったのです。「これがバラ、おうちの垣根に咲いていたでしょ?目をつぶって、あの香りを思い出してみよう…」
 目をとじていると、バラでいっぱいの庭にいるような気持ちになれました。そして、たくさんの子どもたちが美しい花の絵を描きました。
 だじにだいじにしまっておいたハンカチで人形をつくって、年下の子の誕生日にプレゼントをしたり、ドイツ兵の連れてる大きな犬をこわがる子に、プラハの家でかっていた、かわいい、おとなしい犬の絵をかいてあげたり…仕事のつらさや、食べるもののないことはおなじだけど、学校にいていたころのような気持ちがすこしずつもどってきたのです。
 テレジンの<女の子の家>でいちばん年下だったエリカは、大好きなフリードル先生の誕生日に、先生の好きな花の絵をあげようとしました。でも、その日、もう<女の子家>には、赤やピンクや黄色の絵の具もクレヨンもなくなっていました。シミのある紙に大きくハートを描いて、そこには花を描き”大好きなブランデイズ先生へ“と描いたカード…美しい色彩 はなくても、エリカの心は十分にフリードルに伝わったはずです。
 フリードルは、1944年10月16日、エリカ・タウシンコヴァーふくむ30人こどもたちとともにアウシュヴィッツへ送られました。その日の移送者のなかに、生き残った子は一人もいません。
子どもたちが見た夢
 子どもたちは何でも絵にかきました。  大好きだった遊園地、家族であそびにいった湖畔の森、楽しかった学校…大嫌いな収容所の部屋、辛い労働の場面 、首を吊られる人…。「楽しかったあのころを思い出そう」と先生にいわれて、心に浮かんできた光景もあれば、描き炊くのに描いてしまう絵もありました。
 子どもたちの描いた絵はどれも、子どもたちの心の底からの叫びです。子どもたちの願い、怒り、悲しみ、祈り…どの絵にも、子どもたちの思いがこめられています。だからこそ、50年余経た今も、見る人の心にさまざまなことを語りかけてくるのです。
 子どもたちの絵のなかには、花と蝶を描いたものがたくさんあります。きれいな花の咲く原野、平和に暮らしていたころみんなでいった花の丘…そこは、美しい世界、自由な世界の象徴です。あそこへ行きたい!でも子どもたちは、塀のなかに閉じこめられて、自由に外へ出ることも許されていないのです。蝶々だったら…蝶々になれたら、この高い塀を越えて、あそこへ飛んでいけるのに!子どもたちは、蝶々に夢をたくしていました。
 子どもたちは、新しい自分たちの国を夢見ていました。新しい自分たちの国…エレツツ・イスラエル。太陽がかがやき、ヤシの木が茂り、平和で自由な国。でも、そこがまた戦火の地になるとは子どもたちは考えてもいなかったでしょう。
 当時テレンジにいた子どもたちのうち、そこの行き着くことができたのは、わずか10人ほどでした。そもうちの一人エディタ・ポラホヴァー(現デイタクラウス)は、のその夢見ていた国で3回の戦争を体験したと語っています。  食事の場面を描いた絵も多くあります。家族そろっておかあさんの得意の料理食べまだ戦争の嵐の吹き荒れる前の記憶なのでしょう。
 ほとんどの絵が、白いテーブルクロスななかった大きな食卓に、それぞれ盛装したしたおおぜいの家族が並んでいます。ユダヤ教の祝祭日の日の光景なのでしょう。そんな日は、食卓いっぱいの料理の皿が並びました。でも、子どもたちの絵には二つ、三つの皿しかありません。「ほんとうは、食卓にあふれそうなたkyさんの料理をかきたかったはずなのに、クレヨンをにぎったとき、子どもたちはそれを思い出すことができなくなってしまったのでしょう。もう何年もたくさんの料理の皿なんて見ることがないのですから…」ト、プラハのユダヤ博物館の学芸員アンヂェラ・バルトショヴァーは解説しています。
「あの子たちの生きた証しの絵です」
<女の子の家>の世話役だったビリーグロアー

 絵を描いていた子どもたちは、つぎつぎとアウッシュヴィッツに送られて行きました。いったい何人の子どもたちを見送ったか…忘れられませんよ。送られた子どもたちはもう帰ってこないとわかっていました」。
 1945年5月8日、テレジンの収容所が解放されたとき、そこに残っていたのは、ごくわずかな、自分の足で歩くこともできないほど弱り、痩せ細った人たちでした。<女の子の家>の世話をしていたビリー・グロアーも、そのなかの一人でした。
 体力の回復をまって故郷の町や村にことになった人々は、収容所の一角あった倉庫へ殺到しました。ユダヤ人たちが一家族50キロだけを持つことを許された荷物、誰もがいろいろ考えて大事な品々をいれたのですが、高価なもの、貴重なものはすべて収容所入り口で没収されてしまったのです。宝石や銀器毛皮のコート…倉庫は宝のやまでした。明日からの生活の不安を感じる人々は、それらの品物を持ち出そうとしました。
  「正直なところ、私も欲しかったです。でも、私は、見つけてしまったのですよ…。あの子どもたちの絵を…。あの子どもたちが目を輝かせて描いた絵を」。
 ドイツ軍は、解放の直前に、収容者をおいて自分たちだけさっさと撤退していました。そのとき、自分たちの暴行を証明する書類をすべて集めて火を放っていたのです。その焼け残りの書類下に、子どもたちの絵があったのです。彼は、それを2つのトランクに詰めてップラハに持ち帰りました。

 残されていたのは、子どもたちの絵が4000枚、詩が数十編…
そして、生き残っていた子はわずか100人がけでした。
あとがき
“みんな ころされちゃって かわいそうだね。 きっと てんごくにいるね。ぼくがいったからいっしょになかよく あそぼうね“
 1941年、日本ではじてテレジン収容所の幼い画家たち展>が開かれたとき、会場においたノートに、幼い文字で、こんな言葉が書かれていました。 …それより2年前、私は、プラハのユダヤ博物館で、テレジンの子どもたちの絵とであいました。一枚一枚の絵が、さまざまのことを私に語りかけてきました。家族といっしょに暮らしたい、学校へ行きたい。友達と仲良く遊びたい、野原を自由に走りたい…。どれも、今の日本の子どもたちには、あたりまえの、小さな楽しみばかりでした。でも、この子どもたちは、そんな願いすらかなえられず、幼い生命を奪われてしまったのだという事実を知ったとき、私はこの絵を、日本の子どもたちに見せたい、いいえ、見せねばならないと思ったのです。
 全国各地で開催された展示会のなかで、たくさんの素晴らしい出会いががありました。
 テレジンの子どもたちの“もっと生きたかった”という叫びをしっかり受けとめ、“生きる”ことの意味を考えたという高校生、今自分の幸せをあらためて確認し、戦争のない世界にしなければ…と作文に書いた中学生、自分たちが何気なくやっていた“いじめ”が実はヒトラー同じだったと反省の手紙をくれた小学生、そして、フリードル・デイツカーのような教師になれると決意を語ってくれた若者、まだ幼い子どもに、いつか話してあげたいと、解説を書き残していた若いお母さん、…。
 テレンジの子どもたちの、この世に生きた証しともいうべき絵、日本中のたくさんの人々の心のなかに生きつづけることにならました。15000人の子どもたちがぢれほど喜んでいるか、展覧会の企画者としても、心から感謝しております。
 91年出版した「絵画記録 テレジンの強制収容所」が絶版になって以来、多くの方々から、新しい画集の出版を求められてきましたが今回、ルックのご好意で出版できることになり、“幼い画家たち”だけでなく“幼い詩人たち”にもすぽっとをあてることができました。生命のメッセージを着てあげてください。