北上川解説
北上川の二つの河口、石巻市と北上町から、その源泉までの流域自治体と住民による「流域サミット」が十月中旬、岩手県岩手町で開かれた。今夏、三週間にわたり、北上町から岩手町の御堂観音まで249Hをリヤカーを引いて歩いた縁で、参加した。
集会には、昔のような流域の連帯をという熱気があふれていた。「水を汚さないために何か工夫できないか」「水源地の森林保全に力を貸すべきだ」そんな話が出た。そして、川の道の再生を目指す「北上川流域民憲章」の草案づくりを各地で語り合うことになった。
石巻に生まれ育ち、上京して写真学校に入るまで、大河と海を眺めて過ごした。暮らしとともにあった川の世界が、懐かしく思い出された。
子供の頃、因幡の白兎(しろうさぎ)のように、大河に並ぶ船から船へと飛び移ってボラやうなぎを釣ったり,ラッコのように天を仰いで泳いだりした。漫々と水をたたえる川の干満に応じて変わる流れの源への想いは、刺激的だった。
水源地への旅には、理由があった。私のカメラマンとしての活動に不可欠なものを、この春に他界された詩人・谷川雁さんから指摘されていた。雁さんは、宮沢賢治の世界へと誘い、写真の表現にも鉱物的な”核”がなければダメなのだよ、と論してくれていた。
自分の目線と、歩くスピードで大河をさかのぼり、水辺に暮らす人々の表情や風景を写した。「日高見川コミュ二ケーション-めだか展」と題する野外展を登米町や盛岡市など九ヵ所で開いた。あちこちで、文学や音楽などの表現活動に携わる人々と、川の文化と未来を話し合った。
北上町、追波湾河口から河北町あたりの岸辺には、ヨシ原が広がっていた。岩手県の入り口、狐禅寺の峡谷を経て、一週間目に一関市の禅寺にとまった。平泉の束稲山から、悠々と蛇行する大河を見た。その空間は、日高見川と呼ばれた古代の生活や、京都をしのぐといわれた奥州藤原氏の栄華の世界をしのばせた。川がはぐくんだ文化の跡だ。サクラの名所、北上市の展勝地で、レストハウス主人が「おめさん、野宿して来るがどおもった」と迎えてくれた。渡し場跡に、復元した和船がもやってあった。花巻市の河原では、うっそうとした林と沼の自然環境と、モトクロスコースが奇みように伴存していた。父子の乗ったカヌーが、賢治のイギリス海岸をゆっくり流れ下って行った。
水源の町には、カヤぶき屋根があった。スギの古木の根元からわき出る源泉を両手で口に含むと、体のすみずみに染みわたった。この一滴から大河が始まると考えたとき、手のひらに北上川のすべての流れがほとばしるように思われた。十年前にも写真雑誌のしごとで、野宿しながら水辺を歩いた。上流にある硫黄鉱山の廃水で黄濁していた大河が清流を取り戻し、魚も増えてきたころだった。だが、川が暮らしの中にあって、生活経済の一部を担っていた世界は、昔話になっていた。
今夏の旅では、母なる川が、傷だらけなことを発見した。北上町で、ウニがプラスチックを食べているという話を聞いた。中流では黒い農業用ポリ袋などが、ヤナギの枝に引っかかっていた。河原のわきに、ダンプで運ばれたごみの山があった。だが、カヌーやボート遊びをする人々は確かに増えていた。
賢治も石川啄木も修学旅行で、一関から石巻までは船で下った。それが再現する時代ではないだろうが、「北上川流域民憲章」づくりの輪から、流域社会の姿が立ちのぼってくることを期待したい。「95年(平成7年11月6日朝日新聞宮城論壇より)
|specialist|
作品|
経歴|
メダカ展|
寺子屋|
北上川|